お陰さまでこの度、当コラムで日頃お世話になっているHMJM製作の映画「モッシュピット」を拝見させていただきました。この映画で被写体となったNDGのライブには何度も足を運ばせてもらっていて、その魅力を私なりに理解しているつもりだし、先日のハバナイワンマンライブも見させていただいて、NEW ROMANCEをリピート再生する生活になりました。
だが、しかし。。
映画「モッシュピット」は中々にモヤモヤする作品だった!
うーん、鑑賞前から鶴岡さんのコラムで、本作について触れられていたのを読んだのだが、同様の感想を見終わった瞬間に抱えてしまった。なかなか悩ましい、そして意外と罪深い作品なのではないかと思ってしまったのです。それは本作に出演しているハバナイやネイチャーに対してという意味でも。
何故、モヤモヤしたのか。それは作品内の描写を振り返って細かに指摘することも出来るのだけど、なるべく大雑把に捉えてみたいです。
このドキュメンタリーの存在意義は色んな解釈が出来ると思うんですけども。監督である岩淵さんが何度となくライブに足を運び、東京アンダーグラウンドと呼ばれる音楽シーンに存在している”何か”に興味を持ったのであろうし、ドキュメンタリー監督としてそれが何なのかを映像で捉えたいという気持ちがあっただろうし、そのドキュメンタリーを作ることで、彼らの何らかの援護射撃となる作品になればいいという、岩淵監督の愛を凄ーく感じるのです。しかしながら、作品の仕上がりがどこかもどかしい。
結果としてだけど、その東京アンダーグラウンドと呼ばれるシーンに付随するサムシングが一体何のかを捉えているわけではないし、この作品が彼らへの援護射撃となるような内容かと言われれば、ちょっと厳しかったと言わざるをえなかったりします。
それは平野さんがTwitterやトークショーでも言っていたように、映画として作った以上は外の世界に訴えかけるエネルギーを持ち合わせていなくてはならないってことでもあるだろうし、山下さんが「意外とマトモなんだね」と言っていたこともそうなんだと思う。結果として映画として、音楽ドキュメンタリーとしては、もっとエネルギーを感じたかった。だって3組ともある種の「マトモさ」で勝負しているわけじゃないだろうし、この3組にもっと突き抜けたものがあるっていうのはライブの現場で感じるから、お客さんがその場所に行くわけじゃないですか。
鶴岡さんが「映画館で見せられるより、飯食ってる時に、「こんな面白いバンドいるんですよ」って教えてもらったほうがよかった。それはつまり映画として敗北してますよ。」って書いたのは中々にギョッとするけど、それは確かにそうかもしれない。でもそう言わせてしまったことを、それを敗北と捉えるか、勝利と捉えるかは作り手側に委ねていい。この作品の興行成績が良ければ、やっぱり勝ちだし、彼らのライブへの動員に繋がったりしたら大勝利と言っていい。それでも作品の出来に納得するか、しないか、お客さんの感想に満足するのか、しないのか、勝ち負けの判断はHMJM陣営が付けるべき問題だと思うのです。
そういった映画としての何かしらの力不足という点においては偉大な先輩方が指摘しているので、あえて野暮ったいことについては省きたいのだが、
それでも映画的な”何か”を獲得していなくても、”作品を好きでいられるかどうか”っていう目線も別にあると思う。むしろ僕はそこに到達していないもどかしさが、なんだかモヤモヤを増長させてくる。せめて映画としては決してよくなくても、好きな作品だったと言って帰りたかった。僕がモヤモヤを抱えて帰ったのは映画的であることよりも別のことだった。
それはこの映画が”意識高い系”の匂いを醸しだしちゃっているからなんだと思う。
ドキュメンタリーで特定の被写体を扱う場合は、作品のテーマがどうこう以前に、その被写体に可愛げを感じられるかってとても大きいと個人的には感じてます。それはドキュメンタリーに限らず、全ての映画に対してかもしれませんが、、。ドキュメンタリーが特定の人物を追った場合に、無意識化で感じる”可愛気”という要素によって作品の生命線を担保することって大きいと思うんですね。
音楽ドキュメンタリーで例えればモーターヘッドのレミー・キルミスターを主人公にした「極悪レミー」なんかは
レミーが軍福を着用し、戦車に乗って「ウヘヘ」って顔してたりするし、
「長生きの秘訣。。それは『死なないこと』だ!」「ドラッグをやるならスピードにしろ。絶対にヘロインは止めておけ」などの名言が随所に挿入されます。超可愛いです。
とってもバカだけど、可愛いなと思うし、やっぱり最後はレミーに対するリスペクトという感情に浸れる作品ですよ。
奇しくも数日後に、同じユーロスペースで観たドキュメンタリー映画「FAKE」を観ても感じたんだけど、佐村河内守氏が実に魅力的に映る。豆乳をガブ飲みするシーンからも可愛気という要素を担保するものを感じます。
しかしながら「モッシュピット」は残念ながらそういうシーンがないのです。主人公である浅見さんにそういう側面がないとは思えないし、そういう部分を撮ってないとも思えないんだけど、そういう部分があるだけでも、僕ら観客が浅見さんにもっと親近感を感じれたんじゃないでしょうか。
さらに言えば、構成が結構罪深い。冒頭のDOMMUNEに出演するシーンで「他のクソみたいなバンドが売れて、何で自分たちが売れないのか」みたいな発言があったような気がするんだけど。その辺の話って扱いが難しいとこだとは思うのだけど、それは言っちゃダメだと思った。いや、心の中で思ってる分にはいいし、そう感じて、何クソ精神で頑張るのって超大事だと思う。でも、、、皆そうやって頑張ろうとしているわけじゃないですか、特にこの時代は。CDが売れない時代に握手券を付けて、必死にCDを売ろうとしているアイドルだって、生き残るためにそのやり方があっていいだろうし、そのやり方に疑問を持っているアーティストがそれらのカウンターとしての音楽を提供するのだってありだと思う。この時代で表現するために、そしてこの時代に動員するためにはその人たちなりの”売り”がなければ、生き残っていけない時代であることは重々承知の上だと思うのだけど、映画の冒頭で他のアーティストを下げて、自分たちを至高の表現であるように思わせてしまう言葉を使ってしまうのは、結構見る側のハードルが上がってしまう。要はそこまで言ったのなら、「すげえもん見せてくれよな」という感じなんです。
でも、次のシーンがまさか「クラウドファウンディングでライブをすることに」っていう説明があって。え、、それだけ息巻いてクラウドファウンディングなのかという気持ちになりました。もし、次のシーンにライブの切符が全然売れなくて泣いてたり、必死に営業をしても誰も相手にされないというようなシーケンスがあれば、何らかの感情移入出来たような気がします。だからその方法におけるクラウドファウンディングのライブが如何に画期的である方法なんだ!と説明されたって、他のバンドを落とすようなことを言ってしまえば、いけ好かないただの”意識高い系”に見えてしまう。岩淵監督がもっとライブや興行で表現をする運営側の気持ちを配慮すれば、その部分ってもっと気を使っていいと思うし、カットしてでも成立させることって出来たと思うんです。
だったら、そのクソみたいなバンドを具体的に一組挙げて、一斉に対抗戦を仕掛けるとか、そのクソみたいなバンドを駐車場で襲撃するとかして欲しかった。対立概念を作ることはプロレスにおいて凄い大事ですけど、それを成立させることって凄い大変なんです。だから具体名を挙げないで、他はクソ、俺達は最高って言っているのは、ムカつく意識高い系の大学生と一緒ですよ。そこは”自分たち以外”を落とすなら、本当に殺る覚悟がないと、言っちゃいけない。エチケットとでも言いましょうか。何というか、武士道精神の部分が欠落しているように感じられます。そんなことを音楽に求めるのも違う話なのかもしれませんが。モハメド・アリがあそこまでビッグ・マウスでいられたのはそれだけの実力があったからってことだと思うんですけどね。プロレスでも対抗戦を仕掛けるリスクってかなり高い。どっちかの団体が潰れてもおかしくない。長州さんと橋本さんが「てめぇ!何コラ!タコ!コラ!」って言い合ってるのだってある種の愛であり、リスペクトですよ。絶妙なギリギリのラインで二人の潰し合いが呼応して成立してるんだと思います。すいません、話が脱線しました。
その辺りのシーケンスから、猛烈な違和感が生じてしまい、最後までそれが解消される箇所がなかったのです。浅見さんが魅力的な被写体であることには疑いようがないのだけど、もっと可愛げを掘り下げなければ、よく知らないバンドを好きになることは難しいし、映画としての壁を突き破るのは難しいのではないかと感じました。
浅見さんがロフトやシェルターの規模で終わるのも美学かもしれないけど、その次であるネクストステージに行きたいという旨を最初のDOMMUNEで喋り、泣くんです。その悔しさともどかしさに対して、この映画が一つの援護射撃にならなくてはならくちゃいけないはずなんだけど、結果的にそんな浅見さんたちを応援出来る構成にしていないことが僕は二重にもどかしいと思ってしまいました。
僕がやっているガンバレ☆プロレスっていう団体もプロレス界全体から見れば超弱小団体で、週刊誌にもマトモに掲載されない。毎月100人の動員をするのだって精一杯って状況です。ネクストステージへ行く中規模会場の進出だってしたいけど、今の動員をもっと安定させて、さらに熱狂を作らないと次には行けない。そう思いながら地道にやってます。だからこそ浅見さんの置かれてる状況って僕から見れば全然他人事じゃない。熱狂を作っても、作っても、次のステージが見えないから泣いた悔しさを岩淵さんはもっと丁寧に描写しないといけないんじゃないでしょうか。
岩淵監督は心底浅見さんたちに惚れ込んでいると思う。この映画を作り、世に放つのも、やっぱり岩淵監督以外にいないと思います。だからこそです。そんな浅見さんの悔しさの感情を、構成と編集で殺しちゃダメだ。他のバンドを落とすような要素を入れちゃダメだ。そこにある熱狂を、次のステージに行きたいというモヤモヤをきちんと活写する。それこそそのモヤモヤをぶち破る熱狂的な映画に仕上げないと。
もっと俯瞰したり、もっと近づいたり。彼らを心底「カッコイイ」と思っているからこそ、「カッコ悪い」部分ももっと描かないと。
だからそういう意味でも、岩淵さんはまたリベンジしないといけないと思うし、この映画に出演した皆さんも、また岩淵さんに撮ってもらわなきゃいけないんだと思います。
だって、ハバナイも、NDGも、おやホロも最高じゃないですか。だからこそ、リベンジを是非。