1990年代アダルトビデオの奇跡 Vol.17
2016-08-02
コラムニスト:東良美季

平野勝之・編 第3回


<フィルムはそれが客観的映像であっても、
「シュート(撮影)」するという意思の強さが必要である。
映画とは「撮ってるゾ」という芸術的思考が入りやすいメディアだからだ>by平野勝之
そんな「芸術的思考」と徹底的に戦い続けてきた作家、平野勝之についての考察。


 前回、映画には映画監督による神の声がある、と書いた。「ヨーイ、スタート!」と「カット」。この二つの言葉の間は異空間となる。つまりは映画監督の創造した世界である。

 故・伊丹十三に『「マルサの女」日記』という著書がある。キャスティングからロケハン、撮影から編集までを綴った日記だが、撮影1日目のファースト・シーンを撮り終えた後、「ここに、今までどこにも存在していなかった世界が出現した」と感慨深く書いている箇所がある。ロケセットに散水車で壮大な雨を降らせ、佐藤B作が小走りに部屋に駆け込んで来るというシーンだった。

 伊丹十三というのは、そういった「創造された異空間」というモノにすごくこだわった監督だったと思う。黒澤明もそうだったけれど、大量の雨を(人工的に)降らすのが好きだったという点にもその嗜好が現れている。ちなみに伊丹は無類の黒澤ファンであり、エッセイ集『自分たちよ!』(文藝春秋・1983年)では黒澤組の名スクリプター野上照代を鼎談に招き、蓮實重彦と共に秀逸かつ独自の黒澤論を展開している。

 また1981年に写真家の浅井慎平が、まだ世間的には無名だった頃のタモリを主演に『キッドナップ・ブルース』(ATG)という映画を撮った際、パンフレットに以下のような文章を寄せている。これは全編プロット無し、台詞もすべてアドリブの即興演出で撮られたロードムーヴィーなのだが、
「ヒッチコックの言を待つまでもなく、プロットというのは観客のエモーションを画面に繋ぎ止めるための装置なのだが、生憎、慎平さんが一番嫌いなのは、自分の画面がエモーションや人間臭さで汚れてしまうことなのだ」と。

 そしてこの一文は「ストーリー性の排除というのは俺の映画理論とはまったく相容れないけれども──」と続く。この時、伊丹はまだ映画監督ではなかった。俳優であり稀代のエッセイストであり優れたTVドキュメンタリーを手がけてはいたが、劇映画を作ることはなかった。伊丹と浅井は親しい友人であり、伊丹自身もこの作品に出演、アドリブの演技を見せてはいるのだが、見方によっては浅井に対して苦言を呈したようにも思える。そして3年後の1984年に作られた第1作『お葬式』以降、伊丹十三はまさに「俺の映画理論」をもって数々の傑作映画を作り上げていくのだが、マア、それはそれとして──、
 平野勝之である。



 第1回の原稿にも書いたように、平野勝之は8ミリフィルムを使った自主映画作家としてそのキャリアをスタートした。高校卒業後も特に就職や進学はせず、地元の浜松でアルバイトで資金を作り映画制作を続けていた。同地にはヤマハ発動機関連のバイク工場が多く、「キツい割に安いバイトだった」とかつて語っていた。
「どうしようもないと8ミリフィルムを万引きした。撮影後の現像代だけはどうしてもかかるから」と(『アダルトビデオジェネレーション』東良美季・著 メディアワークス刊より)。
 そんな人間だから、フィルムというモノの大切さと、反面その不条理さを身に沁みて感じていたのではないかと想像する。

 というのも、平野は著書『ゲバルト人魚』(洋泉社)にこう書いている。
<フィルムはそれが客観的映像であっても、「シュート(撮影)」するという意思の強さが必要である。それはよーするに機材の重さと金と、最大撮影時間がたった10分という条件と「撮ってるゾ」という芸術的思考が入りやすいメディアだからだ>
 今後詳しく語っていくが、平野勝之とはその<「撮ってるゾ」という芸術的思考>と、徹底的に戦い続けて来た作家である。何故だろう? これも想像だが、「撮ってるゾ」という意思の元に撮影された映像は、その時点で「ウソ臭く」なってしまうと考えたのではないだろうか。
 平野の自主映画時代の作品に『砂山銀座』(1986年PFF入選)という作品がある。僕自身は未見だが、前掲書『ゲバルト人魚』所収、著述家で自身も自主映画作家の山崎幹夫氏の文章によれば、街の風景や出会った人々を淡々と写していた平野がラスト、「今まではすべてニセモノだ」と呟くと赤信号の交差点のド真ん中にカメラを構えたまま立ち尽くす。そして平野と彼に道を遮られた車とが、フィルムが切れるまで対峙しあうという作品だったそうだ。



 平野がなぜ、そこまで撮影する意思という名の「ニセモノ」を嫌悪したのかは判らない。ただ、肉体労働や万引きまでして撮ったフィルムに映し出されたモノがウソ臭いニセモノだと感じた時、そのジレンマは相当なものだったに違いない。そしてひとつの仮説として僕は、平野が単なる個人としての人間が「創造の神」として異空間たる映画を作り上げてしまうという点に、強い疑問を抱いたのではないだろうか、と考える。

 なぜかというとこれまた第1回で書いたように、平野勝之は自主映画監督になる前は、16才でマンガ専門誌「ぱふ」にてデビューするほどの早熟なマンガ家だった。その当時のことを平野は、『ビデオ・ザ・ワールド』誌93年1月号「平野勝之の監督日記」にこんなふうに書いている。

<現実を直視せよ。俺は十九の頃まで自閉症のマンガ家志望であったが、ある日突然カメラを持って外に出た。カメラを覗くと、マンガと違い現実風景はビクともしなかった。俺もセンズリ野郎と共に夢の中で遊んでいたかったが、そうはいかない。夢を犯すには数百の現実とケンカしなくてはならなかった。(中略)そんなわけで、俺のビデオは常に外に向かおうとエネルギーが働く>と。

 23年前、まだ20代だった平野による非常に尖った、そしていささかヒロイックな文章だが、誤解を恐れず単純に言ってしまうと、マンガでやってきたことを違ったメディアたる映画で繰り返しても意味ないじゃないか、ということではないだろうか? 19才の平野勝之は夢の世界ではなく現実と対峙したかった。つまり自身が神になるという映画世界に、痛烈な安直さを感じたのだ。初期のAV作品にやたら安作りでインチキ臭い神(高槻彰や井口昇や原達也が演じる)の登場するのはその意味からだ。



 ただし、それもまた『ザ・タブー〜恋人たち』の約半年後に作られた『ザ・ガマン〜しごけ!AVギャル』(1993年・V&Rプランニング)になってくると、我々はそういった彼の意思が、実は奇妙なパラドックスを生んでいることに気づく。つまり平野が現実とまさにケンカ腰で対峙しようとすればするほど、現実の方が不気味にメタモルフォーゼしていくのだ。

 この『ザ・ガマン〜しごけ!AVギャル』は、ボティコン姿のAVギャル4人をとある住宅街の下水道に連れ込んで、タイトル通りガマン大会のようなセックスと罰ゲームを繰り広げるという内容なのたが、そもそもこの当時大流行し六本木や湾岸の巨大ディスコでやたら着られていたこのファッション自体が、前髪を無理矢理固めたヘアスタイルと共に今見ると相当奇妙だ。そんな格好の若い女たちが町中の小さな公園でホカ弁食ったりドブ川に入っていったりするのだから、とてもリアルな世界とは思えない。しかもこの地下道という空間の異様さは何だ? アンジェイ・ワイダを思い出すということ以上に、あたかも映画のために創造された不気味なセットのようにも見える。

 結局この撮影は付近の住民の通報により警察隊が出動。下水管理の市職員も大量に派遣されて周辺のマンホールがすべて開けられまくり、撮影中止を余儀なくされてしまう。ところがボティコン女や平野や井口らが引きずり出されたその住宅街の風景のリアルさこそが、逆にドキュメンタリーな生々しい「現実」なのである。
 この作品を境にして、平野勝之は「現実を撮ろうとすればするほど非現実に彷徨い込む」という奇妙なパラドックス世界を歩み始める。これは同じく1990年代のAVをリードしたカンパニー松尾、バクシーシ山下、あるいは平野の師匠である高槻彰たちと比べても、圧倒的に際立った個性であり才能である。そしてこれこそが彼の作品の唯一無比な特徴となり、その後さらなる進化を見せるのだが、詳しくは次回以降に語っていこう。(続く)。



※キャプチャは『ザ・ガマン〜しごけ!AVギャル』
東良美季プロフィール

東良美季(Tohra Miki)1958年生まれ。

編集者、AV監督、音楽PVディレクターを経て執筆業。
著書に『猫の神様』(講談社文庫)、『東京ノアール〜消えた男優 太賀麻郎の告白』(イーストプレス)、『代々木忠 虚実皮膜〜AVドキュメンタリーの映像世界』(キネマ旬報社)、他。

日刊更新ブログ『毎日jogjob日誌』http://jogjob.exblog.jp/

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