私は青春なんて嫌いだ――平野勝之「青春100キロ」
青春なんて言葉を私が使うときは、大抵、馬鹿にしている時だ。若い人たちが、仲間同士で必死で何かをしている姿や、若い男女が楽しそうにしている様子を見ると、「青春だねー」とか言いながら、内心「ケッ」とか思っている。
先日も、学生街を歩いていたら、新歓の季節だからか、大学生たちが集団になって楽しそうに集まって騒いでいる光景をちょくちょく見かけた。
ああ、青春だな、そう思ったら、自分の中にあるどろどろべちょべしょした悪臭漂うヘドロと吐しゃ物と排泄物が混ざったような、黒く醜いものを撒き散らして、穢してやりたくなった。
青春を謳歌してるように見える人間たちを馬鹿にしてしまうのは、嫉妬だ。
だって私は、若い頃、楽しいことなんて何にもなかったもの。サラ金まみれでモテなくて貧乏で働きまくって遊ぶ時間も金もなくて、友だちとも距離を置いて、親とはほぼ縁切って、醜くてモテなくて劣等感だらけで人が羨ましくて世の中を呪って早く死にたいと毎日唱えていた二十代、私は世界で一番不幸なのは自分だと思っていた。
幸せそうにキラキラ輝いて何も躊躇うことなく遊んだり旅行したり恋愛したりセックスしたりなんて青春を送っている人間たちと、不平等な世界を呪詛していた。
何とかそこから逃れたけれど、それでも未だにキラキラした若者や、「青春」なんて言葉に、毒を吐きたい衝動にかられる。
私が手に入れることができなかった、あの時代を当たり前に享受している人たちに。
今は、それなりに幸せで楽しく暮らしているはずなのに、若い頃に「青春」なんてものと縁遠い生活を送っていた怨念は未だに身から離れない。
平野勝之監督に「女の怨念と情念と嫉妬のヒマラヤ」と言われたけれど、全くもってその通りだ。
青春なんて、嫌いだ。
だって私には、手に入らなかったものだもの。
4月14日、渋谷アップリンクにて、平野勝之最新作「青春100キロ」を鑑賞した。
人気AV女優・上原亜衣の引退作のワンパートを劇場用に編集したものだ。
上原亜衣と中出しセックスするために、ケイ君というひとりの青年が100キロ走る様子を撮ったドキュメンタリーだ。平野勝之は自転車で彼と並走する。
「監督失格」以来、五年目の平野勝之劇場公開作品とは言っても、依頼が来たのは撮影の4日前という急な話だったらしい。当初から映画にして劇場公開する話はあって、この度の公開が決まった。
蓋を開けてみたら、連日満員で、当日、たくさん劇場に足を運んでくれたお客さんを帰さなければいけないような状況になった。
私は当日、渋谷駅から劇場に向かった。アップリンクは初めてだが、近くで打ち合わせをしたことがあるので、何となく記憶にある光景だった。劇場と道を隔てた道沿いに平野さんが座っていた。
場内に入り、一番後ろの席に座り、暗闇が訪れる。
映画が、はじまった。
内容についてはここではふれない。劇場に足を運んで見てくださいとしか言いようがないし、何も考えず劇場に入っていきなり見たほうが、たぶん、面白い。
ラスト、テロップが映し出されて、ああ、平野さんだと思った。
元AV監督の天才ゴールドマンの音楽も最高に映画に合っているし、相変わらず編集が巧みで飽きさせない。
何よりもホッとしたのは、この作品には、平野勝之の最高の持ち味であるユーモアがある。
そう、平野勝之の作品の良さは、内容が過激とか、登場人物たちが破天荒であるとか、それ以上に、ほんのりとしたユーモアだ。思わずくすくすと笑ってしまうこともあれば、こらえきれず大声を出してしまいそうになる、ユーモア。
平野勝之は、どんな人間からも、ユーモアを引き出すことができる。嫌な、気持ち悪い人間でも、平野のカメラの前では滑稽な登場人物となる。バクシーシ山下監督の作品も滑稽さがあるけれど、山下監督はもっと冷めていて、平野とは距離が違うし、見ているところも違う。もちろん、どちらがいいとか悪いとかではの話ではない。
平野のカメラの前では、走る青年も、スタッフたちも、主演女優も、その他大勢の人物も、滑稽な登場人物となる。
もちろん全ての平野作品の登場人物がそうなるわけではない。「監督失格」などは、シリアスな内容だから、平野の突出したセンスが発揮されるユーモアは封印されていた。
「青春100キロ」は、平野の持ち味であるユーモアが発揮されていて、楽しいエンターティメント作品として仕上がっていた。
バカバカしくて、滑稽で、でも皆、大真面目な登場人物たちの物語だ。
そう、皆、大真面目なのだ。
主演の上原亜衣や、彼女とセックスするために走るケイ君はまだ若いけれど、平野をはじめとしたスタッフたちは、もういい年である。けれど、アダルトビデオという世界の中で、仕事だから当然だが、傍から見たらバカじゃねーのと言いたくなるようなことをやっている。
狂ってるし、くだらないし、親が知ったら呆れるかもしれないし、もっと社会に貢献しろとか言われるかもしれないけど、大真面目にバカやっている。
そもそもセックスそのものが滑稽だ。劇中で、複数の男優たちが登場する場面も、素人たちが上原亜衣を必死に追いかける場面も、たくさんの男たちと○○したい! と必死になる彼女も、よくよく見ればおかしい。
セックスなんて、滑稽で、それをこうして人に見られながらするとか、仕事にするなんて、おかしい。
また、そうやって作られた作品に、本気で感動して号泣したり、「AVに人生を変えられた!」なんて言い続けて、45歳にもなってもう子どもとかいたら大きくなってるだろう年なのに、こうして東京まで追っかけている私も、狂ってる。部屋は古いAV情報誌だらけでAV関係の書籍をほとんど網羅して並べてる私もどうにかしてる。
まさかこんな大人になるなんて思っちゃいなかった。
若い頃は、普通に結婚して子どもを産んで主婦して――こんなバカな大人になるなんて予想もつかなかった。
バカで、笑って、楽しく生きられる大人になれるなんて。
年を取るにつれ思うのは、生きていくには、身体だけではなく、心にも栄養が必要だということだ。心の栄養、それは、娯楽だ。笑ったり、泣いたり、感動したり、楽しいもの。
生きていくと、つらいこと、悲しいことは避けられない。どうしたって、心を引き裂かれるような、苦しい出来事と遭遇する。何度も、何度も、遭遇する。
普通に誰に迷惑をかけず悪いこともせず生きてるつもりでも、理不尽な目にあったり、死にたくなることもある。
だからこそ、笑い楽しむことが必要で、そうしないと生きていけない。心が、栄養失調で壊れてしまう。心が病むと、身体も侵される。寂しさや、悲しみや、つらさ、時には身を焼き尽くすほどの怒りや恨みに侵されてしまう。
ネットの世界でも現実社会でも、わざわざ怒りの種を見つけて他人に吠えて傷つけようとしている人間が腐るほどいる。かつての自分のように、人を恨み世を憎む呪詛が溢れている。
そんなふうにして生きていて楽しいのだろうか。そうやって年をとって自分の人生はいい人生だったと後悔せずにいられるのだろうか。
私は嫌だ。絶対に嫌だ。
もう、人生の折り返し地点は確実に過ぎたからこそ、なるべく笑って生きていたい。
バカでくだらないけど、好きなことやっていたい。
バカな人たちと、バカなことを、大真面目に必死でやって、生きていたい。
そのために働いているようなもんだ。
必死で働いて稼いで、バカやりたい。
私は青春なんて嫌いだから、バカにして笑ってやる。
みんなも笑えばいいよ、バカなことを真面目に必死にやってる人たちを。
劇場に来て、笑って欲しい。
そうすれば明日からまた、生きていける。
「青春100キロ」を見ている最中に、背中の壁がぐらぐら揺れた。誰かがゆすったのか、地震かなと思った。トークショーを終えて、外に出て、九州で大きな地震があったと聞いた。東京で揺れるぐらいだからよっぽどだと思ったら、予想以上だった。
5年前の東日本大震災を思い出した。不安と罪悪感で押しつぶされて何もできなくなりそうで耳を塞いでいた日々を。
ああ、やっぱり、生きていると、悲しいことが起きる。
生きるのはつらいことだと、思い出させる出来事が、起こる。
何ごともなかったかのように生活を続けるだけで、罪悪感が再び込み上げてきそうになるけれど、今すべきことは落ち込むことではないし、誰かを責めることでもないのは、確かだ。目を背けたり、耳を塞ぐこともせず、ただ祈り、自分にできることをする、それ以外ない。5年前のように「不謹慎」という言葉に押しつぶされて、結局、何もできないなんてのは、もう嫌だ。
私の仕事は人が生きていくための娯楽を作ることだ。
人が生きていくために必要な心の栄養を。
こんな時に、こんな時だけど、こんな時だから、「青春100キロ」を、もう一度、見たくなっている。バカな映画だと呆れて、それを見ている自分もバカだなと笑ってやりたい。自分をバカにして、笑ってやりたい。大真面目に、バカなことして生きていられる大人になれてよかったね、と。
キラキラ輝く青春なんて私にはなかったけど、よかったじゃないか、と。
悲しいことも、つらいことも、怒りにふるえることもたくさんあるけど、誰かのために何かをしようと思える大人になれてよかったじゃないか、と。
皆さんも、是非、「青春100キロ」見てください。