1990年代アダルトビデオの奇跡 Vol.16
2016-07-13
コラムニスト:東良美季

平野勝之・編 第2回


映画には、監督という名の〈神の声〉がある。
「ハイ、カット!」という声がかかれば、出演者はいつでも現実に復帰できる。
しかしそれがなければ、いったいどうなるのだろう?
VTRというモノが持つ、とても深く重要な独自性についての序説。


 前回は早熟なマンガ少年から自主映画時代を含め、平野勝之のプロフィールをざっと紹介したわけだが、今回はAV監督になって以降の平野勝之とはいったいどんな映像作家なのか? ということを考えてみたい。ごく簡単に言ってしまえば、1990年代前半は非常に暴力的かつアヴァンギャルドな作風で知られ、1993年の『自転車不倫野宿ツアー 由美香』をきっかけに、以降は自転車ツーリング物とでも呼ぶべき独自にして無比のジャンルの作品を発表して来たAV監督──というようなことになるのだろうが、ただ、それ以上にもっと重要なのが、平野がAVの世界でVTRというモノの存在を最も本質的に、そして最も深い部分まで使いこなした作家であるということだ。

 とはいえ、メディアがDVDに移り変わって10年以上、撮影においてもビデオテープというものが使われずメモリーカード等が主流になった今、VTRというものの概念が以前とはかなりかわっているので、改めて説明が必要だろう。「VTR」を辞書で調べると(1)「videotape recorder(ビデオテープ・レコーダー)」=「画像・映像と音声をビデオテープ(磁気テープ)に記録し、再生する装置」の意。(2)「videotape recording」の略語型、の二つがある。この場では(2)の「ビデオテープで録画すること、または録画したもの」、もっと言えば「光学的なフィルムによって撮られた映像」の対にあるものと考えてもらいたい。

 なぜなら若い人にはピンと来ないかもしれないが、1970年代半ばくらいまでは、動画を撮るには一般映画では35ミリや16ミリ(まれに「70ミリの大作!」というものもあったが)しかなかった。同時期にテレビではVTR撮りのドラマというものが始まったが、時代劇や刑事ドラマ、青春ドラマなどは、やはりほとんどが16ミリフィルムで撮影され、「テレビ映画」とも呼ばれていた(例としては初期の『水戸黄門』、『太陽にほえろ!』、山口百恵の赤いシリーズ、等々)。一方アマチュア用には8ミリフィルムカメラというものがあり、これは約3分ほどのマガジン型フィルムが1本1,500円前後とかなり高価だったにもかかわらず、それでもカメラ好きのお父さんなどにはけっこう普及していて、そこそこ一般的ではあった。前回書いた自主映画時代の平野勝之はこの8ミリフィルム世代であり、コレは後に重要なポイントになりますので覚えておいてください。



 ということで「VTR」の本質って何だろう──? と考える前に、スチール、ムービーに限らず〈カメラ〉そして〈フィルム=映画〉というモノについて少し考えてみたい。
 まずは〈カメラ〉から。デジカメでもiPhoneでもガラケーでもいいのだが、人間って「撮るよ」とそれを向けられるとけっこう構えますよね。ヘンにテレたり落ち着かなくなったり、ダサイなーと思いつつ「ピース」とか(笑)。それと写真館みたいなところで写真を撮られた経験のある人はわかると思うけど、アレもけっこうキツイ。「自然にしてくださいね」なんて、余計に難しい。自然、素の自分、そんなのが人間、実はいちばんワカラナイ。そう思いませんか?

 一方〈フィルム=映画〉というモノについて。
 少し昔の話になるけれど、2003年に深作欣二監督が亡くなった後、遺作『バトル・ロワイアルII 鎮魂歌』の撮影現場風景がテレビで流された。僕はそれを観ていていまだ印象深く覚えているのだけれど、それは、映画監督というのは何でまたあんなふうにバカデカイ声で「ヨーイ、スタート!」と絶叫せにゃならんのかね、ということである。何しろ深作監督はそのときすでに前立腺ガンが脊椎に転移していて、クランク・インからわずか5日後には再入院、プロデューサーで息子の深作健太さんに監督がバトンタッチされた。そんな状況下での大声なのだ。
 もう一人、1999年結果的に遺作となってしまった『御法度』を撮ったときの大島渚も、その3年前ヒースロー空港で脳出血に倒れリハビリ後であり、車椅子で現場入りしたにも関らず「ヨーイ、スタート」と「カット」の声だけは、周囲がビビるくらいバカデカかったという。

 なぜか? かつて大林宣彦監督がテレビで語っていたこともあるが、アレは「さあココから、リアルな世界とは別の、俺が創造する世界に入るぞ」という合図なのだという。つまり役者はココから自分という人格を忘れ、まったく別の人物に成り切るのだ。そして「カット」はハイ、もういいよという合図だ。「ハイ、元の世界に戻っていいですよ」という意味である。つまり〈バクシーシ山下・編〉の最終回でも書いたが、映画監督とはいわば創造の神なのだ。そうなると「ヨーイ、スタート」と「カット」とは神の声ということになる。では、〈神の声〉がなければどうなるのだろう? というのが、実はVTRの本質である。

 エート、ちょっとわかりにくいでしょうか? では話の方向性を変えてみます。さきほど「素の自分」「自然な自分」というのが実はいちばんムズカシイと書いた。では、何かを演じるというのはどうだろう? そんなの芝居の勉強でもしたプロの役者でないと無理なんじゃないの、と思うかも知れないが、僕はそうでもないんじゃないか、と思っている。特にAVというメディアにおいては。



 これをAVで初めてやったのが代々木忠である。
 これも〈バクシーシ山下・編〉の最終回で触れたが、1982年の『ドキュメント ザ・オナニー』という作品だった。その現場で、代々木は後に人気ピンク映画女優となる西川瀬里奈に女子高生を、〈覗き部屋〉と呼ばれた風俗でピーピング・ショーをやっていた斉藤京子に主婦という役割を与えた。これは西川が当時まだ18才で、その撮影の半年前まで女子高生だったからであり、斉藤京子は実際に人妻だったからである。もちろんそのときは代々木自身、何か深い思惑があったわけではない。女子高生という設定でセーラー服を着せた方が観客にウケるだろう、人妻だと言えば興奮するだろうと考えたに過ぎない。しかしこれが思わぬ効果を生む。

 先に書いたように、「自分らしく」「あなたらしく」しなさいと言われると、僕らはけっこう困ってしまう。「私とは誰か?」「自分とは何者なのか?」なんて、まるで哲学的な命題みたいじゃないか? つまり実は何より難しい。だからAVの場合だと、「今回のキミはとにかくエッチな女の子ね」とか「ツンデレな感じでお願いします」と言った方が、女優さんはやりやすかったりする。映画の世界でも、日本の役者は「男優はヤクザ」を、「女優は娼婦」を演じさせると大抵は上手くやれるなんて言う。もちろんそれだけではステレオタイプな世界観しか作れず、AVはお手軽な企画物に、一般映画では安手のVシネマみたいにしかならないのだが、代々木忠はこの手法を後にどんどん研ぎ澄ましていった。僕はこれを「ゲーム理論」と呼んでいる。

 誤解がないよう繰り返しておくが、これは僕が勝手にそう名付けているだけで、代々木監督自身がそう提唱しているわけではない。しかし旧友で、『いんらんパフォーマンス』シリーズを始め80年代・代々木作品の重要な登場人物、伝説のAV男優・太賀麻郎から聞いた話によると、やはりそう呼ばすにはいられない。
『いんらんパフォーマンス』シリーズとは、ほとんどの作品が、複数組の男女が登場し、お互いに異性を奪い合い嫉妬し合うというドキュメンタリーである。麻郎が言うには、代々木はその現場で女優に対し、「ゲームなんだから、思いっ切り気持ちを出してしまえよ」「恥ずかしくないよ、今だけなんだから」と伝えたという。

 本心を出せと言われれば誰だって引く。若い女の子なら尚更だ。でも、「これはアダルトビデオなんだ」「俺たちは裸を見せて、客を楽しませる商売じゃないか」「君はAV女優だろう、やってみろよ」と言われれば、ほとんどの女優たちが応じたという。しかし問題はそこからだ。ゲームだと言って、現場が遊び半分になってしまうかといえば違う。むしろ逆だ。サッカーの国際Aマッチなんかと同じである。考えてみればサッカーにしろ野球にしろラグビーにしろ、元々は単なるスポーツだ。ゲームである。ところがW杯やWBCになると、プレーヤーからサポーター、一般市民に至るまでが戦争状態のような心理になる。



『いんらんパフォーマンス』も同様だった。最初はゲームであり、それぞれの役割のはずだった。ところが一度は自分を「好き」と言っていた相手が別の男優を選ぶ、女優を選ぶ、そうなると嫉妬の炎は驚くほど燃え上がる。何しろ目の前でセックスされるのだからたまらない。特にAV女優という人種には、「人から愛されたい」願望が強い娘が多い。そしてAV男優には「俺はそこいらの男よりもモテる、セックスが強い」という思い上がりにも似たプライドがある。代々木はその辺りも上手に刺激した。嫉妬は倍々ゲームで膨らみ爆発した。大切なのは、「嫉妬することがアナタの役割なんだよ」と言われていることだ。だからわざと嫉妬してみせる、ところがある瞬間からその感情が止まらなくなる。暴走を始める。

 つまりこういうことだ。人間とは、感情があって行動するものなのか? たとえば人は悲しいから泣くと、何となく思っている。でも、果たしてそうか? ちょっとしたきっかけでふと涙が出て、泣き始めるとどんどん悲しくなって号泣してしまうなんてことはないか。怒りも同様だ。恋人同士の痴話喧嘩なんか、ちょっとしたことで怒り始めた彼女がどんどん怒りの種を探し出し、遂には手が付けられなくなるほど怒って泣きわめいてしまうなんてことはないか?

『ドキュメント ザ・オナニー』の西川瀬里奈と斉藤京子も同様だった。先に述べたように、西川には女子高生、斉藤には人妻という役割が与えられた。そしてココで大切なことは、代々木忠が彼女たちに「このように演じろ」とは一切指示しなかったということだ。代々木はただ設定だけを与え、「オナニーを見せてくれないか?」と頼んだ。そしてマジックが起こった。つまり「人は感情が先にあって行動するのか」、あるいは「行動が感情を誘発するのか」である。人間は、怒りでも悲しみでも嘆きでもいいのだが、いったんそのスイッチが入ってしまうと止まらなくなるときがある。痴話喧嘩の恋人しかり、子供を怒る母親なんてのもそうじゃないか。怒っているうちにわけがわからなくなって虐待に繋がったりする。泣き上戸の酔っ払いなんてのも同じだろう。人前で泣いてる自分がさらに可哀想になってワンワン泣く。

 映画ならココで神の声がある。「ハイ、カット!」と言われればソコで終われる。あるいはフィルムには物質的限界もあった。代々木忠は著書『プラトニック・アニマル─SEXの新しい快感基準』(幻冬舎アウトロー文庫)にて、「当時のフィルムは4分間でマガジン・チェンジをする必要があった」と書いている。ところがVTRは廻り続ける。デッキが二台以上あればまさにエンドレスだ。出ている者の興奮は止らない。どんどんエスカレートする。果たしてどうなったか? 結果として『ドキュメント ザ・オナニー』では、当時としては前代未聞だった、女性がカメラの前で本気でオナニーにヨガリ狂ってしまうというスゴイ映像が生まれたのである。さて、それは果たして誰の意志だったのか? ということが問題だ。
 代々木忠だったのか、西川瀬里奈や斉藤京子ら、出演者たちだったのか。おそらく違う。では、神の意志はいったい何処にあったのだ? コレがVTRというモノの本質であり、次回以降論旨を展開する《ポストダイレクトシネマ》という概念の肝となる。



 と、これ以上進めるといつまで経っても平野勝之について何も触れられないまま終わってしまうので、初期の傑作『ザ・タブー〜恋人たち』(1993年/V&Rプランニング)を紹介してみたい。
 奇しくもこの作品は高槻彰による「こんにちわ、僕は神様です」というナレーションから始る。この頃の平野作品には〈神様〉やそれに準ずる表現が多い(前回キャプチャ画面が掲載された『水戸拷悶』では、井口昇が「ブッダ井口」、原達也が「イエス原」という名前で登場する)が、これはおそらく偶然ではないと思われる。
 平野勝之は、意識的に自分を創造者だと考えてこの作品を作っていない。そもそも一応、監督=平野勝之とクレジットは出るものの、その実平野は出演者の一人でしかない。これは『ドキュメント ザ・オナニー』における代々木忠も同様である。そう、彼らは神の声を無意識のうちに放棄しているのだ。

 さて、物語としては、そこに神の創造した4匹の動物が登場する。井口昇演じるカワウソ、原達也のカッパ、杉山正弘のサル、そして甲月季実子演ずるウサギだ。
 ストーリーというほどのモノはないのだが、舞台は人類創世期。ある日ウサギが「赤ちゃんが欲しい」と言い出すところから物語は始まる。しかし誰も子どもの作り方がわからない。そこでウサギの膣に生卵を入れたりするのだが、「それでは赤ちゃんは出来ないよ」と両性具有の神であるイチゴが登場する。イチゴは私生活でも甲月の恋人であり、バイセクシャルにしてスゴ腕なセックステクの持ち主である。つまりは現実の背景を反映した役として登場し、SEX下手な井口や原に対し指導し、男女入り乱れた乱交になる。この「現実の背景を反映した役」という作り方は、以降の平野作品でしばしば登場する。覚えておいてください(そしてココまで読んでくださった人はもうおわかりでしょう、代々木忠もまた、『ドキュメント ザ・オナニー』において西川瀬里奈と斉藤京子に「現実の背景を反映した役」を与えている)。

 さて、全体を取り仕切る神は高槻だ。おそらくこれプロデューサーという立場の隠喩であろう。そして先に書いたように、ココでも最低二台のカメラが常に廻り続けている。カメラは止らない。この場に既存の神の意志はないのだ。杉山が甲月の膣から、井口の口へと口内発射したあたりからムチャクチャになり、ラストは井口、原、杉山、そして平野、高槻までが浣腸され、その糞便を甲月の身体に撒き散らすというとんでもない展開となって終焉を迎える。

 ちなみに本作は1993年上半期『ビデオ・ザ・ワールド』誌(コアマガジン刊)AVベストテンの第1位に輝いた作品である。そしてつくづく思うのは、この時にはオウム事件も阪神大震災も、酒鬼薔薇事件も起きてなかったのだ、という事だ。もちろん9.11も東日本大震災も、である。「平和だったんだなあ」と言いたいわけではない。大災害も狂気も猟奇もあった。ただ、我々の意識の深い深い地層に、埋められ覆い被されていただけだ。平野も我々もそしてあなたも、そういった狂気や破戒衝動、それに対する脅えというものを実は深く無意識に抱いていたのだ。それが、神の意志というモノの正体である。詳しくは次回以降に(続く)。

※キャプチャは『ザ・タブー〜恋人たち
東良美季プロフィール

東良美季(Tohra Miki)1958年生まれ。

編集者、AV監督、音楽PVディレクターを経て執筆業。
著書に『猫の神様』(講談社文庫)、『東京ノアール〜消えた男優 太賀麻郎の告白』(イーストプレス)、『代々木忠 虚実皮膜〜AVドキュメンタリーの映像世界』(キネマ旬報社)、他。

日刊更新ブログ『毎日jogjob日誌』http://jogjob.exblog.jp/

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