1990年代アダルトビデオの奇跡 Vol.11
2016-03-07
コラムニスト:東良美季

バクシーシ山下・編 第3回


〈美少女本番〉という物語性がすり減った時、AVは新しい物語を欲していた。
その新しい物語がカンパニー松尾だったとしたら、バクシーシ山下はすべての幻想が消失した後に現われた。
メディアとしてのAVは、何も無い時代をどう観察したのだろうか?


 今月は以下の引用から始めてみよう。拙著『アダルトビデオジェネーション』(メディア・ワークス/1999年)というインタビュー集から、である。
「まあ、世の中には変な人たちがいるもんだなって、そんな感じですよね。ただ、何ンて言うか、並木(翔)さんとか見てて妙に気持ちが良かったんですよ。すがすがしいというかね、変な装飾がないじゃないですか。ただヤリタイという気持ちしかない(笑)。無垢なまま、それが妙に新鮮だったんです。普通の男優さんって、ホントにやりたいんだかやりたくないんだかわからないじゃないですか? それなのになぜかチンポだけはしっかり勃ってる。それって僕にはどうにもよくわからなかった。それに比べてV&Rに来る男優ってとにかく『ヤリタイ!』っていう欲望ムキ出しで来る。それが面白かった」

 バクシーシ山下が、男優として初めてV&Rプランニングの撮影現場(安達かおる監督による『蒼奴夢』シリーズの1本)に行った時の感想である。一見とても淡々としたコメントに見えるけれど、よく考えてみると実にバクシーシ山下らしい批評精神に溢れた、非常に鋭いモノの見方だと思う。前回バクシーシ山下が「バイト感覚」で男優やADをやりながら、当時のAV業界というものに「違和感」を感じていたのではないか? と書いた。「何も無かった世代」が抱く「何も無かったAV業界」に対する「違和感」である。もちろんバクシーシ山下自身が自らの世代を「何も無い」と思っていたかどうかは不明なのだが、彼がADとして付いていたピンク映画あがりの監督が、まるで「足で字を書くように」AVを撮っていたことに、ひとつの「違和感」を感じていたのは確かだろう。つまり、AV業界ってまるで撮るべきモノなんて何もないかのように振る舞っているけれど、それって本当なのかな? という問いかけである。



 そこで、もうひとつバクシーシ山下による興味深いコメント。
「うん、カンパニー松尾はね、楽しんでやってましたよね。見た目にもすごく楽しそうにAVを撮ってるって気がした。その前につき合った監督とかには、どうしてもテレビや映画に対するコンプレックスみたいなものが見えちゃったんですね。松っちゃんにはそれがなかった。『ああ、こういうスタンスの人もいるんだな』って思った。AVでしか出来ないことを、この人はちゃんとやってるなって感じですよね。AVだからこそ出来ることを一生懸命探してるなって感じ。それは、他の人には無い感覚でしたね」(前掲書)

 AVでしか出来ないことをやる──これは単純に見えて、実はとても複雑な問題だ。何故なら、じゃあ「AVって何なの?」という根本的な問いかけになってしまうからだ。でも、この際だから考えてみよう、AVって何だろう? それが前回の終わりに書いたカンパニー松尾とバクシーシ山下の、小さくて大きな違いであり、また僕自身がバクシーシ山下作品に初めて接して、「AVは今、とんでもないところまで来てしまったのだ!」と驚いた意味でもある。


 そもそも女の裸を撮ればAVになるのか? あるいは男女のセックスを撮ればAVになるのか? という問題がある。ココには実は〈ポルノグラフィとしてのAV〉と〈メディアとしてのAV〉という二つのモンダイが隠されているのだが、まずはとりあえず〈ポルノとしてAV〉を考えてみよう。たとえば小嶋陽菜や横山由依が男とセックスしたりフェラチオしたりしている映像があると言われたら、かなりの人が見たいと思ってしまうのではないか。実際、そういうニセ動画をチラつかせて「引く」詐欺メールはよく来る。気をつけないと「ガセ」だとわかりつつもクリックしてしまったりする。これがなぜかというと、そこには〈カンパニー松尾・編〉でしつこく書いた、「えっ、あのアイドルがそんなことを!」という意外性に基づく物語性があるからだ。

 1980年代初頭のAV黎明期、多くの才能が〈ポルノとしてのAV〉をどうやって成立させようかと考えに考え、一応の完成を見たのが宇宙企画の「美少女本番」というものであった。以降、VIPエンタープライズ(後のアトラス21)、KUKI、芳友舎と、他メーカーも追随する。「美少女本番」とは、ユーザーに「えっ、こんな可愛いコが人前でセックスしてしまうの?」と思わせる手法だった。これもまたモザイクがすっかり薄くなり、ペニスの出し入れがくっきりわかる現在のAVからすると想像もつかないのだが、日本のポルノビデオというのは、実は非合法な裏ビデオが先行して始まった。有名な『洗濯屋ケンちゃん』とか、海外物逆輸入と言われた『ザ・キモノ』などだ。エロい動画といえばにっかつロマンポルノかピンク映画しかなかった時代、これらはサラリーマンを中心に空前の話題となり、週刊誌では「キミはもう見たか?」「日本もいよいよポルノ解禁か!」というような見出しで特集が組まれるほどだった。1982年頃のことだ。


 特に当時の裏ビデオには、女性器にペニスがズホズホと出し入れされるシーンが、必ず画面一杯にアップで映し出されていた。そういった過激きわまりないものが流通している中、大きなボカシ(モザイク消しという手法が生まれたのも1984年くらいである)を入れなければならない合法アダルトビデオは、それに負けないエロを描かなければならなかった。そこで考え出されたのが「美少女本番」だった。つまり裏ビデオに出てくるヤクザの情婦か場末のソープ嬢みたいなケバいお姉さんではなく、青山学院あたりに通っている育ちのいいお嬢様。そんな清楚な女の子が本当にセックスしてる、えっ、こんな娘が! という世界観である。けれどそんな物語性も、80年代半ばにはずいぶんとすり減ってしまっていた。だからAVは新しい物語を欲していた。それに最も敏感だったのがカンパニー松尾であった──というのが数回前まで連載した、カンパニー松尾論の序説である。

 つまり、カンパニー松尾の段階ではその方法論に革命的なモノがあったにせよ、まだその物語性に対する欲求は生きていたということだ。しかし、バクシーシ山下が登場するに至り、そういった牧歌的な物語性はすでに消失した時代になった。これが象徴的なのだ。いや、そういった美少女本番的物語性では、もはや何も語れないところまで来てしまったというべきだろう。ちなみに松尾や山下のV&Rプランニング修業時代、師匠である安達かおるの口癖は、「夏物のワンピースを着て麦わら帽子をかぶり草原に佇む美少女? あんなものは嘘っぱちだ!」だったという。もちろん「美少女本番」とはひとつの幻想だから嘘に違いないのだが、安達もまた松尾や山下同様、その軟弱で淡い物語性ではリアルな「性」はもう描けないと実感していたのだ。


 で、冒頭のコメントに戻る。若き日のバクシーシ山下青年はなぜ、並木翔を始めとするV&Rに集まる男優達に「すがすがしさ」を感じたのだろう? それはすでにすり減って消失した物語性に頼らずに存在する、現実的な在り方ではなかったか。先に〈女の裸を撮ればAVになるのか〉〈あるいは男女のセックスを撮ればAVになるのか?〉と書いたけれど、バクシーシ山下はその問いに対してハッキリとこう言い切っている。
「要するにセックスしたいヤツを出せばいいと。セックスしたくてしたくてたまらないヤツを集めてカメラの前でセックスさせればいい。そうすればそこにはセックスが写るはずだト。女の子も、セックスすること以外ではビデオなんかに出られない子ばっかりだしね(笑)」

 これは今さらながらにすごい発言だと思う。要するにアダルトビデオが生まれた80年代初頭からずっと、多くの才能ある監督たちが〈何を撮ればAVとして成立するのか〉と問うてきたモンダイをアッサリと全否定しているからだ。もちろん、それを凡庸な作り手が山下のようにやってもAVになんかならない。これも〈カンパニー松尾・編〉でしつこく書いたが、人間というのは、見ず知らずの男女が画面の中でただズコバコやっていても決して興奮なんてしない。「こんな可愛いコが」とか、「この女、スケベだなあ」と思わせる何かがないとポルノグラフィとして成立しないし、もちろん一編の作品にはならない。ネットでタレ流される断片的なエロ動画が面白くない、少なくとも金を払ってまで観るほどのものではないのはその意味だ。つまり<セックスしたいヤツを集め><カメラの前でセックスさせる>、そんなやり方でAVを撮り、成立させているのは後にも先にもバクシーシ山下しかいないのである。

 では、バクシーシ山下はどんな方法でAVを成立させているのだろう? おそらく彼はV&RのAD時代、まるで雨後の筍のように現われる素人男優や「どこから連れて来たんだよ」と言いたくなるブッサイクな企画女優を見ながら、「この人たちは、なぜここにいるのだろう?」と考えたのではないか。つまり先の発言にあるようにAVというモノがそこにあるからだ。そう、〈物語としてのAV〉は消失したのにも関らず、〈メディアとしてのAV〉は依然生き続けていたのだ! ココから先は、対象を観察して観察し尽くし記録していくというバクシーシ山下独自の方法論が展開されていく。つまりバクシーシ山下がメディアになる、彼自身がAVという媒体になっていったのだ。この点を次回以降突き詰めて語っていくことにする。キーワードは〈監督≠バクシーシ山下〉〈編集+構成=バクシーシ山下〉である(続く)。

※キャプチャは「続・続・蒼奴夢の宴 狙われた学園
東良美季プロフィール

東良美季(Tohra Miki)1958年生まれ。

編集者、AV監督、音楽PVディレクターを経て執筆業。
著書に『猫の神様』(講談社文庫)、『東京ノアール〜消えた男優 太賀麻郎の告白』(イーストプレス)、『代々木忠 虚実皮膜〜AVドキュメンタリーの映像世界』(キネマ旬報社)、他。

日刊更新ブログ『毎日jogjob日誌』http://jogjob.exblog.jp/

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