1990年代アダルトビデオの奇跡 Vol.4
2015-11-24
コラムニスト:東良美季

カンパニー松尾・編 第4回


AVの中でセックスを説得力を持って描くためには物語性が必要だ。
カンパニー松尾は、ビデオの中で〈男女がSEXする必要性〉に誰よりこだわった作家でありながら、
ドラマとしてのAVに対し、その白々しい虚構に違和感を持っていた。
彼は切実でリアルな性への欲望を、果たしてどのように描いたのだろう?


 人間がセックスするには理由が必要だ。それはアダルトビデオの中でも同様である。我々は見ず知らずの男女が、意味もなくヤッてるだけのビデオを見ても決して興奮しない。こう書くと「綺麗な女やイヤらしい身体をした女なら意味も無くヤッてるだけでも興奮するのではないか?」という人がいるかもしれない。しかしそこにはすでに〈美しい女とセックス出来たらどんなに気持ちイイだろう〉、〈イヤらしい身体をした女のセックスは特別エロいんじゃないか?〉と思い込む「理由」が存在している。

 理由、それは物語性と言い換えられるだろう。人間は物語性抜きにセックス出来ない動物である。何故ならそれは、精神分析の岸田秀による理論で言ってしまえば、〈人間は本能の一部が壊れてしまった動物〉だから、である。人間はその他多くの野生動物のように、〈季節が変り発情期が来れば本能に従って性交する〉ことが出来ない。ゆえに一歩間違えば〈嫌がる女を無理やり暴力で犯したら気持ちいいのではないか?〉というような危険な物語性まで必要としてしまう。ちなみに〈レイプ〉という行為をするのは数ある哺乳動物の中で人間だけだ。また、充分に発育していないメスに欲情する〈=幼児性愛〉のもやはり人間だけである。人間がセックスするためには物語性が必要である。ここから始めてみよう、カンパニー松尾についての考察である。

 カンパニー松尾は、ビデオの中で〈男女がSEXする必要性〉に誰よりこだわった作家である。それはひとつに彼がドラマ(映画やTVドラマ的な物語)を作るのが苦手だった事に起因するだろうし、もうひとつには空々しいドラマ(リアルでない現実)に拒否感があったせいだろう。ひとつずつ説明していく。まずは前者から。


 初期、松尾は『あぶない放課後』シリーズである意味正統派なドラマ作りを試みているが、実際のところあまり成功したとは言えない。これまた理由は二つ。ひとつには彼自身ほとんど映画やTVドラマというものを見ないで育ったからであり、もうひとつには彼が『あぶない放課後』シリーズに、自身の高校生時代の性に対する渇望やコンブレックスを、正直過ぎるほどストレートに投影しようと試みていたからだ。ドラマ作りをするためには登場人物の性格や欲望を、あるていど普遍化・一般化する必要がある。そうしなければ観る人には伝わらない。前回、当時のカンパニー松尾がさいとうまこと監督の一連の宇宙企画作品に影響に影響を受けていたようだと書いたが、松尾はさいとうのように美少女に対する憧れや淡い性欲というものを、一般化して描くことが出来なかった。いや、一般化するのには、ある種の白々しさを感じていたのではないか? 何度も書いているが、〈バブル期の暗い欺瞞性〉である。松尾はもっと切実でリアルで、ヒリヒリするような性への欲望を描きたかったのだ。では白々しいドラマではなくリアルな現実、欺瞞性の無い切実な欲望、それはいったい何だろう?

 カンパニー松尾が、自らの作品作りにおいて強いインスピレーションとヒントを得たと語っている作品がある。それは彼のわずかデビュー6作目『OH! 満子3〜スワッピング・トライアングル』というマガジンビデオのワンパートにある。そこには「自分の妻を男優に抱かせたい」という夫婦の求めに応じ、小型カメラ(当時はまだ8ミリビデオもなくソニーのEDベータという機種だったらしい)を担いで九州へと向かう松尾の姿がある(ハメ撮りではなく男優・並木翔が同行)。彼は1993年の僕のインタビューに答え、その作品で「そうか、別に既成のAV女優じゃなくていいじゃないか、小綺麗なマンション・スタジオじゃなくていいじゃないか、本人の家に行って撮った方が絶対に面白い!」という発想を得たと語っている。しかし同時にそこには、登場する若い夫婦の求める、セックスへの切実な理由が存在していた。そのご主人は仕事中の事故により男性機能を著しく損なっていたからだ。そう、そこには彼の持つ性への物語性があったのだ。つまり〈愛する妻が他人に抱かれる光景を目の当たりにすれば、自分の男性は再び目覚めるのではないか?〉という物語性である。


 ではカンパニー松尾本人にとって、切実な物語性とは何だったのだろう? それは10代の頃の性に対する渇望やコンブレックスだったかもしれないが、少なくともそれをAVドラマとして一般化することではなかったはずだ。時は1989年になっていた。V&Rプランニングに入社して3年、24才になろうとして松尾青年は、もっと自分自身そのものの、リアルで切実な物語を欲していた。つまりは自分の恋愛を撮ること、後に松尾が言う〈ラブビデオ〉である。が、すぐさまその結論に結びついたわけではなかった。その年の春、カンパニー松尾はV&Rの社員として、デビューしたばかりの新人AV女優・林由美香と「面接で」出会う。そして同年6月『あぶない放課後6』を撮る。それは由美香の他に女教師役の女優も登場する言わば〈企画ドラマ〉であったのだが、一方で林由美香のAV女優としての人気に火がつき、彼女は次第にAVアイドルと呼ばれるようになる。

 そして8月、名作と呼ばれる『硬式ペナス〜林由美香』が撮影されるわけだが、後に由美香の引退作(1992年に復帰)『ラスト尿』(1990年)には『硬式ペナス』の数シーンが引用され、〈これが松尾初めての単体作品となる〉という手書きのテロップが挿入される。つまり本人もかなり入れ込んで撮影に望んだことがうかがわれるのだが、しかしこの『硬式ペナス』、今見返すと実はかなり〈ムチャクチャな〉作品である。松尾はインタビューと称して由美香に「なぜ君はAVに出るんだ。君みたいなイイ娘なら普通の職業だって出来るはずだ」とほとんど絡んでいるような発言ばかり繰り返すし、晴れてます男(という芸名の男優=安達かおる命名による)へのフェラチオや、平本一穂とのセックスも非常に唐突で必然性が極端に薄い。

 おそらくそれは松尾なりに、アイドル林由美香の存在を単体作品としてユーザーに提供しようとしたのだろう。しかし前述したように、カンパニー松尾にはさいとうまことのように少女像を美しく作り上げ一般化する能力と資質が大きく欠けていた。あるいは無意識のうちに、一般化することに白々しさと嫌悪感を感じていたのだろう(その証拠に冒頭のイメージなどは、由美香の可憐さよりも奔放さが強調されている)。ところが、松尾は編集段階にきて突然、自分が林由美香に猛烈に恋をしている現実に気づく。つまりそこに来て初めて、自分が由美香のセックスを撮る理由に気づくのだ。結局のところ松尾は自らの想いを連綿とテロップに書き連ね、その作品の構成を当初のプランとまったく別のモノに作り替えてしまう。


<君に贈りたい〜ラブビデオ〜これが僕に出来る事>、自らの想いをテロップに連綿と書き連ねる──、これは松尾が現在に至るまで好んで使用する手法だが、これがまさに彼がAVを撮る、セックスを撮影する理由の表明だった。そして彼が獲得した物語性とはいったい何だったのだろう? 『硬式ペナス』は以下のような実に美しいテロップで始まる。

<初めて会った時、君は話の途中で席を立ち、髪形をかえて戻って来た。僕は何かムツカシイ、印象をうけた。だけど、その次、会った時、君は僕を裏切った。かわいくて、素直で、不器用で、楽しかった。
 たとえ君に彼氏がいたってかまうもんか、僕は、アイツにはゼッタイ出来ない告白の仕方を知ってるんだ。今、見せてあげるよ。>

 カンパニー松尾が、欺瞞の無い無垢な衝動をひとつの物語として一般化した瞬間である。現実の中から切実な物語を紡ぎ出し提出していくこと、以降、松尾の作品はその変遷を続ける。次回はそれがロードムービーとして結実した宮崎レイコ主演の『熟れたボイン』シリーズをテキストに語っていくことにしたい。ところでひとつだけ付け加えておくと、今回の文中に何度かカンパニー松尾がドラマを撮るのを苦手としたような旨の発言をしたが、実は彼なりに「ドラマ物のAV」に結論を出した快作が存在する。1992年にリリースされた『曼珠沙華(まんじゅしゃげ)〜美人姉妹の憂鬱』(V&Rプランニング)である。これは当時AVアイドルとして人気絶頂にあった朝岡実嶺と、河合ふみえという新人女優をキャスティングした作品で、今回この原稿を書くために再見しようと思ったのだが叶わなかった。なので『ビデオ・ザ・ワールド』誌1992年12月号に掲載された斉藤修氏のレビューを引かせてもらうと、<松尾監督はこの作品において、いつものように8ミリビデオ感覚でカメラを自らかついであやつり、徹底的に既成の撮影法をぶちこわす所から始めている>とある。

 物語は元AV女優で復帰するため上京した朝岡実嶺と彼女のマネージャー、そして朝岡の妹でやはりAV女優の河合と男優・青木達也、この2組の男女が織りなすワンデイナイトの物語だが、両者は最後まで一度も顔を合わさずに終わる。斉藤さんは<劇的な起承転結があるわけではなく、淡々とスケッチするように日常を切り取っていく>と記している。僕はこの作品をリアルタイムではなく後に、おそらく90年代の終わり頃に観たのだが、一見して、「あっ、これは『恋する惑星』だ」と思った。いうまでもなく香港の映画監督ウォン・カーウァイによる、日本でも彼の名が一般的に知れ渡ることになった傑作である。映画好きの方ならご存じだろうが、ウォン・カーウァイという監督は、いわゆる「カット割り」というものをしない。撮影監督のクリストファー・ドイルが主に手持ちのカメラで縦横無尽に動き廻って撮影したフィルムを、スローモーションやランダムフリーズといったテクニックを使って大胆に編集して作品に仕上げていく。


 まさにカンパニー松尾がロードムービーや単体作品で見せる手法そのものだ。そして内容もまた、警察官である金城武と逃亡中のドラッグ・ディーラーの女(ブリジット・リン)、やはり警察官トニー・レオンと飲食店の店員フェイ(フェイ・ウォン)という2組のカップルのワンデイナイトの物語であり、二つのストーリーが交差することはない。ただし重要なことは、先に挙げた松尾の『曼珠沙華(まんじゅしゃげ)〜美人姉妹の憂鬱』は、『恋する惑星』の2年も前に制作されているのである。

(続く)

※キャプチャは「あぶない放課後6」「硬式ペナス
東良美季プロフィール

東良美季(Tohra Miki)1958年生まれ。

編集者、AV監督、音楽PVディレクターを経て執筆業。
著書に『猫の神様』(講談社文庫)、『東京ノアール〜消えた男優 太賀麻郎の告白』(イーストプレス)、『代々木忠 虚実皮膜〜AVドキュメンタリーの映像世界』(キネマ旬報社)、他。

日刊更新ブログ『毎日jogjob日誌』http://jogjob.exblog.jp/

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