1990年代アダルトビデオの奇跡 Vol.2
2015-10-26
コラムニスト:東良美季

カンパニー松尾・編 第2回


そう、なぜ我々は気づかなかったのだろう?
普通、男と女は無機質なフローリングのスタジオで、煌々とライトの点いた状態でセックスなんてしない。
女の子はどこかのスタイリストが選んだお仕着せの衣装なんて着ない。
誰も「ヨーイ、スタート!」と言われて抱き合ったりしないということを──。


 前回、<アダルトビデオにとっての1990年代とは何だったのか? 端的に言ってしまえばテーマは2つ。それは時代がバブルを経験したということと、VTRを巡るハードウェアが革新的に進化したということだ──>と書いた。今回はまず、そのバブルに焦点を当ててみたい。1988年、クリスタル映像の実質的な制作責任者だった村西とおるが同社を突然退社。黒木香に沙羅樹といった専属女優と、日比野正明(現「ソフト・オン・デマンド」代表取締役会長)らスタッフを全員引き連れダイヤモンド映像を設立する。当初は村西がクリスタル時代の児童福祉法違反容疑の逮捕で制作活動を自粛したり、宇宙企画、芳友舎等いわゆる「大手五社」の反発から、プロダクションに「ダイヤモンドには女優を供給するな」という圧力がかかったりと苦戦もしたが、1989年2月、バスト「110.7センチ」の超巨乳女優、松坂季実子の登場で一気にブレイクする。

 以降、ダイヤモンド映像は「大手五社」の息のかかったメジャー・プロダクションとは別ルートより独自の方法論で女優を発掘。桜樹ルイ、卑弥呼、田中露央沙、乃木真梨子、野坂なつみといった人気女優を次々と専属にして、さらにはKUKIから伊勢鱗太朗を、芳友舎から豊田薫をスカウト。それぞれに「裸の王様」「ヴィーナス」というレーベルをスタートさせ、ココにダイヤモンド映像帝国とでも言えそうな一大グループメーカーが成立する。これがほぼ、1990年代の始まりと同期する。AVバブルの頂点であったと言えよう。しかし、繁栄と共に崩壊のスピードも速かった。1990年12月には衛星放送事業に進出すべく関連会社ダイヤモンド衛星通信を設立。しかしこれに対する過大な投資が経営の足を引っ張る形となり、また、同時に日本経済全般のバブル崩壊とともに訪れたAV業界の不況も後押しとなって、1991年半ばには業績が急激に悪化。翌1992年2月、ダイヤモンド映像は事実上の倒産を迎える。

 しかし僕は、問題は実はその後だったと感じている。バブル期「大手五社」では芳友舎から星野ひかるが1990年6月にデビューし、わずか8ヶ月という短い活動期間に数万本という驚異の売上げを記録したと言われた。そして彼女に続いたAVアイドルが飯島愛、白石ひとみ、朝岡実嶺の3人だ。これまた個人的な話で恐縮だが、僕がAVライターとしてアダルトビデオを観始めたのがちょうどこの時期だった。僕は1989年の春に芳友舎の専属監督を辞め、90年からはダイヤモンド映像に移籍した伊勢鱗太朗からの誘いで、伊勢と彼のプロデュースしていた作品のパッケージ・ディレクションに関っていたのだが、正直どうにも乗り切れずにいた。バブルはまだギリギリ末期ではあったけれど、やはりAVの世界にはすでに祭の後といった感が漂っていた。少なくとも僕にはそう感じられた。


 そして1992年の終わりから、ちょっとしたきっかけであまり深い考えもないまま、『ビデオ・ザ・ワールド』誌(コアマガジン)でAVレビューの仕事を始める。初めて書いたのが憂木瞳のデビュー作『危ない寄り道帰り道』(VIP/監督・いとうまさお)という作品だった。赤外線カメラを使って夜道を帰る女子高生のレイプを撮ることだけが売りの、ひと言で言ってしまうと、何とも暗いAVであった。それは監督の責任でもましてや女優のせいでもなく、すべては時代の空気に他ならなかった。先に挙げた飯島愛、白石ひとみ、朝岡実嶺、3人のAVアイドルの作品も同様である。飯島、憂木が後にバラエティ番組で人気者になるように、白石はテレビドラマ、朝岡が伊丹十三監督の映画で活躍するように、彼女たちの美しさとキャラクターに問題は何もなかった。出演するAVの撮影自体が、妙に薄ら寒く貧しかったのだ。

 彼女たちの作品はおしなべて都内にある出来合いのマンションや一軒家スタジオで、しかも多くが短時間に撮影されていた。飯島愛に関しては、「午後4時までに終了せよ」というプロダクション側からの要請があったとさえ言われている。まるで不動産モデルルームのような小綺麗なだけで無機質なロケセット、コスプレAVに代表されるパターン化したスタイリング。男優たちは判で押したように不自然に日焼けした肌をして、首にゴールドのネックレスを巻きバスロープを着て登場した。あの貧しさはいったい何だったんだろう? それはバブルという幻想がとうの昔に終わっているにも関わらず、ゴージャスなセックスを演出していた、AVアイドルという幻想を作りだそうとしていた、その無理やりな暗さではなかったか。そのことに気づいたのは、実はそれからずっとあと、2000年に発行された飯島愛の自伝『プラトニック・セックス』(小学館)を読んでからだった。

 中学時代から不良仲間と毎晩新宿などのディスコで夜遊びに耽るようになり、遊ぶ金の欲しさに万引きやカツアゲを繰り返す生活。高校には籍を置いていたが通学せずすぐに中退。男と同棲。六本木でホステスとして働いていたところをスカウトされ、1992年にAV女優となる。芸名は水商売時代に所属していた店のママが「みんなから愛される子になるように」という願いを込めて「愛」という源氏名を付けてくれた──そんな物語。これが真実だとしたら、AV女優・飯島愛はすべて嘘になる。いや、別に嘘でもかまわないのだが、それを無理やり無機質なロケセットと安っぽいスタイリング、日焼けした男優の肉体でシュガー・コーティングしようとした、その発想が寂しいのだ。誰もが金持ちになれる、小綺麗なマンションに住んで海外旅行に行って、クリスマスイヴはシティホテルでシャンパンの栓を抜くなんて真っ赤な嘘だと判りきった時代に、それを信じようとしていた欺瞞が貧しいのである。


 さて、いよいよカンパニー松尾である。僕が彼の作品に始めて触れたのは『私を女優にしてください7〜稚内・広島・甲子園DAE-CUP放蕩編』(1993年)で、その時の衝撃は未だに忘れられない──とカッコよく書きたいところだが、実はその前にもう1本見ている。『LET'S GO ジュリアナボーリング』(1992年)という作品である。もうタイトルからして何とも投げやりなコレの内容というのが、松尾がAVギャル数名と当時「オタク評論家」として脚光を浴びていた宅八郎氏、作家の本橋信宏さんらとダラダラとボーリングをやるシーンがエンエンと流れるという奇妙な作品で、僕は『ビデオ・ザ・ワールド』のレビューにこう書いている。

<全編8ミリビデオ、照明ナシなので不鮮明な画面。加えて身内のボーリング大会を10分以上冒頭に持って来るなど実に稚拙で素人臭い作品。しかしこのヒトはそれをどういうワケだか70分息も付かせず見せ切ってしまうのだ。これはやはりタダナラヌ才能としか言い様がない。ふつーは出来ないよ>と。


 要するによく判らなかったんである。そもそもカメラはベーカムかイケガミの79、それにHMIライトという大型の照明でAVドラマを撮り続けていた僕のような古いタイプの元AV監督に、理解しろというのが無理な話だったのだ。逆に言えばそのくらい松尾の撮る映像というのが斬新であり革命的であったということだ。しかし、それに続く4ヶ月後に観た『私を女優にしてください7〜稚内・広島・甲子園DAE-CUP放蕩編』で、僕の松尾作品対する評価はコペルニクス的転換を遂げる。つまり実にガーンと判ってしまった気がしたのだが、その神髄はこうだ。

 誤解を恐れず単純化して言ってしまうと、「カンパニー松尾による8ミリカメラを携えた一人称のロードムービー、それは80年代後半から続くバブリーな欺瞞を暴く鋭い武器であり、その暗さと貧しさを払拭する希望の光だった」ということになる。これに関しては次回以降順を追って丁寧に論旨を展開していくつもりだが、当時AVの若い作り手からテレビ現場の若いディレクターに至るまでが、松尾の映像を「カッコイイ!」と言った意味はコレだったと思う。アニメーション作家で映画監督の庵野秀明が松尾のAVに親近感を示したのはそれからずいぶん後だけれど、『新世紀エヴァンゲリオン』や『ラブ&ポップ』に流れる行き場の無い閉塞感は、当時多くの若者が抱えていた集団無意識だったはずだ。


 暗さや貧しさを伴うバブリーな欺瞞性とは何だったか? たとえば『私を女優にして下さい6 岸和田・京都・池尻大橋ADE-CUPデスマッチ編』にも『私を女優にしてください7〜稚内・広島・甲子園DAE-CUP放蕩編』にも、女の子を伴い、あるいは彼女の家にまで上がり込んで松尾が大好物なカレーやラーメンを食うシーンが出て来る。その直後、僕がインタビューという場で初めて彼に会い、「なぜ?」と聞いた時、松尾はさも当然といった表情で「通常の行動」と答えた。これがその意味だった。「だって」と当時28才だったカンパニー松尾は続けたものだ。「好きな女と会えば一緒にメシを食いたくなるのが普通。特にボクはカレーが好きだから一緒に食いたい。ラブホもイイけど、彼女のアパートでセックスもしたいじゃないスか」と。

 またV&Rプランニングは彼が入社した当時、まだ非常に小さな会社だった。そんな場で育った松尾には、AV業界の持つ欺瞞性を誰よりもヒシヒシと肌で感じていたはずだ(別の場で「売れセンの単体女優なんて絶対にダクションが撮らせてくれなかった」と語っている)。そう、なぜ我々は気づかなかったのだろう? 普通、男と女は無機質なフローリングのスタジオで、煌々とライトの点いた状態でセックスなんてしない。女の子はどこかのスタイリストが選んだお仕着せの衣装なんて着ない。「ヨーイ、スタート!」と言われて抱き合ったりしない──そしてココからが大切なのだが、そういった〈通常の状況〉を画にする、作品にする、さらにはそんな決して良くない撮影条件の元「ヌケるAVとして成立させる」には、カンパニー松尾という作り手の持つ、卓越した技術とセンスが必要だったということだ。さあ、ではでは! そんなテクニックの変遷と秘密について、次回からじっくりと検証してみよう。お楽しみに(続く)。

※キャプチャは「私を女優にしてください7〜稚内・広島・甲子園DAE-CUP放蕩編
東良美季プロフィール

東良美季(Tohra Miki)1958年生まれ。

編集者、AV監督、音楽PVディレクターを経て執筆業。
著書に『猫の神様』(講談社文庫)、『東京ノアール〜消えた男優 太賀麻郎の告白』(イーストプレス)、『代々木忠 虚実皮膜〜AVドキュメンタリーの映像世界』(キネマ旬報社)、他。

日刊更新ブログ『毎日jogjob日誌』http://jogjob.exblog.jp/

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