ごくごくとセックスを飲み干すことができたなら Vol.11
2017-12-08
コラムニスト:花房観音

女が男を愛する時  〜南智子さんのこと〜





2017年11月30日、南智子さんが亡くなった。
沖縄旅行から帰るタクシーの中、twitterで知った。考える間もなく、涙がこぼれた。
私は人の死には鈍感で、冷たいほうだという自覚はある。周りが悲しむほど、冷静になってしまう。なのに、南さんの死は、そうでなかった。
タクシーから降りて、自宅に戻る。数日、家を空けたので、郵便物や宅急便が溜まっていたし、翌日は東京に行くから準備もしないといけなかった。でも、混乱していた。AV監督の市原克也さんにはタクシーの中から南さんのことをメールで知らせた。家に戻り、代々木忠監督にもメールする。南智子さんが亡くなりました――と。


南さんが世に出たのは、代々木監督の「性感Xテクニック」シリーズだ。あの作品で、彼女の存在に衝撃を受けたという人は少なくない。AVだけど、彼女は下着を身に着け全裸にはならないし、挿入もされない。ひたすら言葉と道具と指で男を、ときには女を責め続ける。絶え間なく繰り出される言葉の海に溺れ、思考をする時間も余裕も与えられない。全てを彼女にゆだね、甘え、悶え泣き、昇天する。

二十代初め、代々木忠監督の著書「プラトニック・アニマル」を読んで興味を持ち、処女でキスも経験なく、彼氏がいたこともなかったのに、レンタルビデオ屋の十八禁の暖簾をくぐり、代々木忠監督の作品を手にした。最初に観たのは、現在も続く「ザ・面接」シリーズで、激しい衝撃を受け、その後、様々な作品を借りて観た。
その中に、南さんの「性感Xテクニック」もあった。プレイだけではなく、出演者たちが語り合う場面もあったが、南智子さんは、とても知的で聡明な女性に見えた。そしてときおり、出演している女性を思いやるしぐさがとても印象に残った。
彼女の言葉責めには抑揚がない。「まるでお経のようだ」と、十年以上経ってから知り合った、彼女に強く影響を受けたというAV監督と話しているときにそう言われて、なるほどなと思った。私は「声明」を聴いたときに、彼女の言葉責めを思い出した。抑揚はないけど節がある、仏教音楽だ。
いやらしい言葉を繰り出し、全く躊躇いなく責める彼女に、名だたるAV男優たちが絶頂に導かれた。自分が女に身を委ね悶えることが許せなかったのか、激怒してその場を去る男優もいた。身体が受け入れても、頭がそれを許容しなかったのだろう。普段、女をよがらせる男が、自分がまるで女のように、いやらしい言葉を逃げ場なく浴びて、あんあんとあられもなく声をあげてしまうことは、「男」の崩壊でもある。
観ているこちらも、悶え狂う男たちの姿は、衝撃だった。

私が今まで一番繰り返し観ているAVは、「性感Xテクニック」の最初の作品だ。目を瞑り、ヘッドホンで彼女の声だけを聴いてみたこともある。映像がなくても、いや、映像がないからこそ、彼女の声が入ってきてトランス状態に近づいていくのがわかった。


アテナ映像のDVDボックス「ATHENA CENTURY 掘\感Xテクニック」のブックレットの中で、代々木監督は、撮影前の当時の葛藤を語っている。


「女が男を犯る、というイメージに対して俺自身の中にいたたまれない気持ちがあったんだ。実際に初めて見たときは衝撃的だったけど、相手は女の子だったし男がやられるのを見たわけじゃないから、自分の中で譲れないものがあったんだな」

「シリーズ一作目の最も重要となる男優は、悩んだ末にトップを突っ走っていた日比野達郎に依頼を決めた。だがこのシリーズの趣旨である『女のように受け身になって、女にイカされる』という内容を伝えたら、もしかしたら彼は断るかもしれないと思った。なぜなら、本来AV男優というのは、確実にいま抱いている女をイカさなければならないという絶対的な使命を背負っているからである。骨の髄まで染み付いた《男たるべき》とは真逆のことをしてくれと頼むわけで、結果如何によっては彼は男優としてやっていけなくなるのではないか、という懸念が頭にはあった」


代々木監督の心配とは裏腹に、日比野達郎さんは、「うん、いいよ」とあっさり出演を快諾し、そして現場で、代々木監督が内心、「日比やん、申し訳ない、すまない!」と叫んでしまうほどに責められヨガる。
そしてこの作品からはじまる「性感Xテクニック」シリーズは旋風を巻き起こし、彼女は世に出た。


「プラトニック・アニマル」の巻末には、南さんと代々木監督の対談が収録されている。
 そこで南さんは、「私は異常なのか」というコンプレックスについて語っている。


「好みのタイプの男性がいたら、その人の胸を舐めたりとかフェラチオしたりとか、いろいろエッチなことを私から積極的にしてみたいという思いがあとからあとから湧いてくる。そんな自分が女の子として異常なんだろうかと悩みました。
 それをまわりの親しい女友だちに話すと、『そんなこと、一度も考えたことがない。あんたはおかしい』とか『女の子のほうからするなんて、すごく飢えていて男が欲しいって感じでみっともない』とか言われてしまう。そして何日か経ってから『今はそう思っていても、そのうちだんだんなくなってくるよ』なんて慰められたりもする。
 ところが、私はぜんぜんなくならない。いつまで経ってもなくならないから、異常なんだろうかと心配する反面、これだって女の子の自然な欲望なんだという思いも強くなってくる。結果的に、私は後者の気持ちをずっと大切に持ちつづけてきたわけなんです。
 今回、監督に巡り会え、『女だって自分から積極的にしてみたいんだ。それは異常ではないんだ』という今まで人に言いたくてもずっと言えなかったことが発表できるチャンスをいただけて、とてもありがたいと思っています」


 最初に、この対談を読んだときに、自分と同じように思っている人がいたのだと、驚いた。処女で、男の人とつきあったこともないくせに、私はいやらしいことに興味があった。けれど容姿が悪い上に、劣等感が強く、自意識過剰で、男に人には全く縁がない。おそらく自分は一生、男に相手にされないし、処女のままだとも思っていた。そのくせいやらしいことに興味が強い自分を、強く恥じて責めていた。
 大学の友人たちは、次々に彼氏を得て、セックスを体験していた。けれど、彼女たちから体験談を聞く度に、違和感があった。「私はしたくないけど、彼氏がどうしても我慢できないから」「フェラチオなんて、好きな女がいるはずもないけど、彼氏がしてくれっていうからする」「いちゃいちゃするだけのほうがいいのに、男って、すぐにやりたがるから嫌だ」……彼女たちの話の中のセックスは、いつも「女が受け身で、男の欲望を仕方なく受け止める」ものだったからだ。

 今現在も、周りに、「私は性欲はない」「セックスしたくない」と、口にする女性は少なからず存在する。そういう女性が本当に「性欲がない」「セックス好きじゃない」なら、納得はいくけれど、実際は自分から複数の男に誘いをかけたり、行為をしている。結局のところ彼女たちは、「飢えてる寂しい女だと思われたくない」「嫌われたり非難されたくない」というプライドや臆病さで、嘘を吐いている人も中にはいるというのも、今はわかる。
 けれど、学生時代、私自身は自分の性の欲望を自覚していたから、「したくないのに、男に求められるから、仕方なくする」友人たちの話を聞く度に、自分は異常なのだと思い、自己嫌悪に陥っていた。したい自分には男が寄ってこず、したくない彼女たちが男に困らないのも、劣等感を増幅させた。
 そんなときに、「プラトニック・アニマル」を読み、南さんの言葉で、「自分と同じことを考えている人がいるんだ」と、彼女に興味を持った。
 今なら、男を責めてみたい、自分から求めたい、フェラチオしたい、セックスしたい、男の身体を舐めてみたいという欲望なんて、当たり前にあるものだと言えるけど、昔は、そうじゃなかった。男に性的対象にされない自分にとって、セックスは遠いものだったから、なおさらだ。

 また、この対談の中での南さんの「男の性の話は自慢話か冗談だけど、女の性の話は真剣だ」という言葉は、最近痛感している。私が小説で、性や性欲を描くようになって、私の本を読んだ女性が、手紙やメールで打ち明け話をしてくれることがたまにある。どの女性も、真剣で真摯だ。だけど、やはり男性からの話は、「たくさんの女をイかせた」という自慢話が多い。そもそもそういう男性は私の本を読んでさえいないけど、「エロいことを書く女に、俺のほうがスゴい」と言って優越感を得たいだけなんだろう。

 若い頃は、自分がこんなにたくさんの男から好かれているんだと周りに思われたいがために、セックスを手段にしている女が、どこにもいた。セックスを餌に男を釣り、それで同性に対して優越感を抱きたい女が。けれど、年を取ってくると、そういう女性は減ってきたように思える。それより、若さを失いつつあるから、セックスに切実になり、失うものも多くなるからこそ真摯になり、セックスそのものを求める女性たちが、私の周りにはいる。
そういう女性たちが、私の本を読んで、「自分の身近な人には絶対に言えない」告白をしてくれるのが、私は愛おしくて、嬉しい。何より、自分が救われた気になる。
 かつて「異常ではないか」「おかしい」そう思って、強い劣等感に苛まれた自分の欲望が、小説という形で人に読まれ、誰かの力になっているとしたら、本当に幸せだ。
 結局のところ、私が物を書いているのは、自分自身の傷を癒す、治療のためなのだ。


 女がセックスの欲望を持つことに対して、非難や軽蔑の態度をとる人は、まだまだたくさんいる。異性だけではなく、同性もだ。私は何度、「おかしいよ」「よくこんなもの書くね」と言われて、露骨に嘲笑の視線を浴びたことだろう。
「あなたの小説に登場する、恋人以外の、複数の男と、とにかくセックスしたいと強い欲望を持つ女が全く理解できない」なんて、同業者に侮蔑するように言われたこともある。


 オナニーする、フェラチオしたい、男の身体を舐めたい、セックスしたい、ときにはパートナー以外の、愛してない男とでもセックスしたい。ひとりじゃ足りない、いろんな男としてみたい。男の身体を知りたい、男がどんなふうに声をあげるか、知りたくてたまらない。自分から男を言葉や指で責めて、気持ちよくしたい。男の喘ぐ声を聞きたい、男を感じさせたい、気持ちよくなって欲しい。恋愛なんていらないから、気持ちよくなりたい、快楽だけが欲しい。愛撫して挿入されるだけじゃなく、ときには道具を使っても、いろんなことをされてみたい、してみたい。甘い言葉よりも、激しく求めあいたい。ぶたれたり、縛られたり、言葉でいじめられてみたい。壊れたい、壊されたい、壊してみたい。もっともっと気持ちよくなりたい、気持ちよくしてあげたい。男の身体が欲しい、女も欲しい、ものすごく欲しい、性別を超えて気持ちよくなりたい。誰にも言えないことをしてみたい、いけないことをしたい、されたい。とにかく気持ちよくなりたい、快楽に溺れたい、幸せな気持ちになるために身体をあわせたい――セックスがしたい。


 女が、そうやって欲望を持つことは、全くいけないことじゃないはずなのに。
 男のほうだって、欲望を持たない女を抱くより、お互い欲望をぶつけ合うほうがずっと楽しいだろうとも、今なら思う。
 それでもやっぱり、女のほうから求めること、男たちの想像を超えた女の欲望を恐れる人間はたくさんいて、恐怖心を抱く人間は攻撃をしてくるから、傷つけられてきた。
 複数の男と関係する女や、性産業を生業にする女は、病んでいるだとか、男の言いなりになっている憐れな女だとか思い込んでいる人は多く、自分の意志で楽しんでいると口にすると、否定されたり嫌悪感を露わにされるのは、よくある。

 私は官能小説の新人賞がきっかけで小説家になり、性愛や官能を書いている。本も何冊も出しているけれど、描いている内容から、嫌悪感を剥き出しにされもするし、私の本が新聞の書評欄に載るのが不快な人もいる。
 私は顔も晒し、人前に出る機会も多く、SNSでもセックスについて書く。こうしてアダルトビデオのサイトで文章を書くし、AVが好きなのも公言している。だから、私を小説家として認めたくないし、否定する人もいる。
 また美人がセックスについて語るなら、それは一種の想像力を喚起するエンターティメントとして受け入れられるけれど、私はそうではないから、憎悪を向けられることも多い。
 男にとって都合のよい「女の性欲」を書く気もないし、自分もそれを演じる気もないから、エロ好きな男性には嫌われもする。私自身も、どこか男を、というよりは、男の欲望を憎んでもいるから、それが現れ露悪的になっているのも自覚している。


 それでも私がセックスを書き続けているのは、代々木監督の存在があるからだ。代々木監督の作品により、価値観や、当たり前に信じてきた常識を、粉々にされた。でも、だから、自由になれた。私がこうしてなんだかんだ言いながら、楽しく生きて仕事をしていられるのは、代々木監督のおかげだ。
 代々木さんの作品で出会った南智子さんという、自分の欲望を肯定し、凛として生きてきた女性の存在も大きい。


 自分の欲望を肯定する――それは、たやすいことではない。どれだけの女性が、できているのだろう。セックスなんか好きじゃない、私は性欲がないと言いながら、男を求める女たちがいい例だし、貞操観念や男が女を従わせるために作られた価値観を信じ、そこからはみ出る自由な女たちを嫉妬し攻撃する女たちも、自分の欲望に目くらましをしている。
自分にとって都合のいい女の欲望しか受け入れない男たちはたくさんいるから、そういう男たちのために演じ続けている女も、どこまで自分自身の欲望を自覚して生きてるのだろう。

 私自身だって、未だに肯定なんてできていない。
自分より自由に性を謳歌する女性たちに嫉妬と羨望の感情は抱くし、傷つけられないために嘘を吐くことだってある。
ずっと自分の欲望には罪悪感があるし、傷つく度に、自分の存在そのものを否定してしまう。
どうして、こんなふうに生まれてきてしまったんだろうと、いつも思う。
昔は死にたくなるほどに、そんな自分が嫌いだった。


 だからこそ、南智子という女性が、どうしてあそこまで、毅然として、慈愛をもって生きていたのか――それをずっと考えている。

 
 南さんとは、一度だけ、実際に会った。
 私が過去に、南さんについてブログに書いていて、それを読んでくれて、SNSでやり取りがあり、イベントで顔を合わせた。驚くほど、昔と同じ姿で、小柄で優しげな雰囲気で、「会いたかった。会えてうれしい」と、言ってくれた。私は南さんが、あんまりにも可愛くて、清廉な雰囲気を纏っていて、緊張で上手く話せなかった。
 そして、彼女は、本当に真面目な人に見えた。それを言うと、「そうでしょ。Nさん(有名AV監督)には、『南さんて真面目過ぎてつまんない』とまで言われちゃった」と、彼女は答えた。

 南さんは、風俗の仕事をしながら、漫画原作をしたり、小説を書いたり、創作の方に向かっていた。風俗を引退してからも、過去を隠すことなく仕事をされていた。売春や性風俗、女の欲望についての発言はあちこちで見かけた。南さんはいつも気負うことなく、自然に、それらを語っていた。誰にでも届く、丁寧な言葉で。

 私が「巨根坊主の話を書いた(デビュー作「花祀り」の秀建)と、書いたのに反応されて、「うちの父は劇画原作者で、坊主の話を書いていました」と、聞いた。それが「女犯坊」という漫画だと、後に知る。
 南さんがもともと風俗の世界に入るきっかけは、父親の借金だったとは、どこかで読んだ。その父親が、劇画原作者の滝沢解だった。もともとは集英社の編集者で、作画のふくしま正美とのコンビの「女犯坊」「超劇画 聖徳太子」は、破綻しているがとにかく無茶苦茶だけど、勢いのある漫画で、引き込まれて読んだ。
 漫画のように、滝沢解自身も激しい人だったことは、太田出版版の「女犯坊」で、様々な人がエピソードを語っている。
 南さんは小説家として、パートナーと共著でも、何冊か本を出している。亡くなる前のペンネーム「南澤怪」は、父親の名前と読みが同じだ。南さんにとって、父親はどういう存在だったのか、聞きたかった。


 アテナ映像の「ATHENA CENTURY 掘\感Xテクニック」のブックレットでは、代々木監督が、劇画原作者で僧侶の牛次郎氏に誘いを受けて遊びに行ったときのエピソードも書かれている。
 そこで代々木監督は、少女のブロンズ像を見つける。


「これがすごくイイ。優しくてイイんだ。両肩を広げて上向いた幼い乳房がキュンと立ってて、全体的に流れるような曲線で、よく覚えてるんだ。そうおしたら、牛さんが、『これ、南智子が作ったんだぞ。オレの弟子だったんだ』って言うんだ!」


 そして、更に、渡り廊下の壁には、彼女の油絵がかかっていた。代々木監督は、その絵について、こう語る。


「『その強烈な赤は忘れないよ。真っ赤な背景の中に一頭の豹がこちらを睨みつけている。あの赤の狂暴性というか攻撃性、俺は南さんと出会った後だったから、何となく彼女の中にある感情を知りえたような気持ちだった』
 羨望、嫉妬、甘え、寂しさ、憎しみ、愛しさ…人間の持ちうる、あらゆる混濁した感情を尖った状態で内包しているのだろうか。南智子という女性は、人間のドロ臭さも、女のしなやかさも、男の勇ましさも、少年のあどけなさも、少女の清らかさも持っている。人として、他を惹きこむ力を備えているのだ」

 
彼女が自分の欲望を肯定し、また人の欲望も受け入れて生きてきたことにより、私だけでなく、多くの人間を救い、楽にし、生きる力を与えてくれた。
 だけど私は、彼女のことを、もっと知るべきだったと後悔している。
 自分のHPでやっているインタビューで、話しを聴きたい人は何人かいて、彼女もそのうちのひとりだった。けれど、忙しさにまぎれ、声をかけることもなく、永遠にその機会を失った。
 人は死ぬ。
 だから、会いたい人には会っておかないといけないし、好きです、ありがとうと伝えておかないといけない。そんな当たり前のことを、普段、忘れてしまっていて、いつも後悔をする。


「性感Xテクニック」シリーズの中で、AV男優のチョコボール向井さんが、南さんに昇天させられ、「愛してる……」と口にする場面がある。
 愛されていると感じたから、その言葉が出たのだろう。


 女が男を愛することを見せてくれた南さん。
 私はいちファンに過ぎないけれど、あなたのおかげで得たものを、こうして書き残しておこうと思いました。文章を生業にしている私にできることは、それだけしかありません。
 
 だけど、今、とても、悲しくて、寂しいです。
 そんな自分に驚き、戸惑っています。
花房観音プロフィール

京都市在住の作家、バスガイド。

京都女子大学中退後、映画会社、旅行会社、AV情報誌での執筆等様々な職を経て2010年に「花祀り」(幻冬舎文庫)で第一回団鬼六賞大賞受賞。
官能、ホラーをはじめ、様々なジャンルの小説を執筆。

公式HP:http://hanabusa-kannon.com/

会員登録はこちら
  • YOUTUBEのチャンネル登録する